一生懸命、今を生き抜く人たちのお話 「かあちゃん:重松清」を読んだ。
どんな子どもも、ひとりぼっちでこの世に生まれてくることはありえない。
世界中のすべてのひと。あらゆる時代の、あらゆるひと。例外などない。
生まれてきた瞬間にいちばんそばにいてくれるひとは、どんな人間の場合も、母親なのだ。
思いだすことすらできない人生のいちばん最初の記憶に、母親がいる。
その深い深い記憶を忘れずにいるかぎり、ひとは、どんなに寂しい毎日を送っていても、決してひとりぼっちではないのかもしれない。
父親の事故により巻き添えになった、
犠牲者に何十年も罪の意識を一人で背負った母親。
こどものいじめ問題に悩む母親。仕事と育児の狭間で苦悩する母親。
などなど、さまざまな母親の苦悩が本書にはある。
人間は、誰もが弱くて、
ちょっとしたことで崩れて、壊れて、また戻って、
そんな繰り返しで。
でも、その中で成長しながら生きている。
他人のことは側面からしか見えなくって、
でも実際にはひとそれぞれにいろんな苦悩があって、
楽しそうで順調に見えている人もなんらかの悩みやストレスがある。
大事なことは、それを知ること。
一つ一つの問題を知ることではなくって、人間ってそんなものなんだって知ること。
問題を抱えていない人なんていない。
ただ、それを見せていないだけだって気づいてあげること。
そんな”おもいやり”をもつこと。
心の中が優しさだけのひとなんて世界中のどこにもいない。
どんなひとだって、ときには弱くなったり身勝手になったりする。
だから、誰かに優しくされたり誰かに優しくするときって、胸がほんのりと温もりながら、ちょっとだけせつなくなるのかもしれない。
何かに負けて、くじけても、
でもそれをバネに、がんばれるひともいれば、がんばれないひともいる。
そういういろんな人たち、すべてを含めて”人間”なんだって思う。
負けたことのない教師って、ほんとうに生徒にとっていい教師なんでしょうか。
教師のいちばん大事な役目は、生徒に勝ち方を教えるんじゃなくて、
負けてもくじけない気持ちを教えることじゃないんですか。だとすれば、
負けたことのある教師のほうが、生徒には必要じゃないんですか――。
自分はこうだと思うから、他人もこう考えるだろう。
自分はこんなとき、この程度の苦しみだから、他人も大丈夫だろう。
なんて、自分の中にある、ステレオタイプにまどわされちゃいけない。
人間っていろんな人がいて、いろんなことを背負って生きてる。
それは自分には想像もできないこともあるし、
予想もできないこともある。 でも、それでいい。
弱い人も強い人も、一生懸命、今を生きている。
母親と父親が作り出してくれた命を。
そんなことだけがわかっていればいい。
なんだか、読んでいてそんな事を考えた。
「たいせつ」には理由なんてない。理由を説明しろといわれたら困ってしまうし、どんなに国語が得意なやつでもうまく説明しきれないのが「たいせつ」なんだと思う。